天国に在ることのアート
ここ数日、北海道は真夏のように暑いですね~
暑さは得意ではありませんが、綺麗に晴れた青空と美しい緑は大好きです
こんな美しい日は、ただそれだけで至福を感じてしまいます
さてさて、、、
プライベートなお話なのですが、14年間わが家の大切な家族であった♂猫のレオンが、今朝天に帰りました。
これまで、可愛がってくださったみなさま、心から感謝いたします。
動物であれ、人であれ、死の場面に直面することがあると、わたしたちはおのずと「生きることとは」ということを自然に学びますね。
生とは、死とは、愛とは、幸せとは・・・
わたしは7歳の時に兄を事故でとつぜん亡くして以来、しぜんといつもそのようなことを考え続けてきたような気がします。
禅宗での弔いであったため、毎週読経におとずれるお坊さんの般若心経を聞いているうちに、その年でまるっと暗記してしまい、しばらくはよく仏壇の前で暗唱していました。
わたしが、禅やスピリチュアル科学をベースに今のお仕事にたどりついたのは、今思えばまったく不思議なことではなかったのかもしれません。
今回、レオンの最後の時間を共にしながら感じたことは、
「生きるとは、すべてにおいて全面的であること」
というOSHO(瞑想のマスター、光明者)の言葉の再認識でした。
動物をみていると、どんなときにも全面的です。
中途半端になにかをやる、ということはありません。
ご飯を食べる時も、遊ぶ時も、くつろいている時も、寝る時も、死を迎える時も、躊躇したり悩んだり迷ったりすることはありません。
わたしはどうだろうか?
笑うことも、喜ぶことも、怒ることも、悲しむことも、なにかに打ち込む時も、
食べる時、寝る時、誰かと関わる時、
何をする時も全面的だろうか?
いや、まったく全面的ではなかった、躊躇している部分、諦めている部分、ごまかしている部分、中途半端な部分がとっても多い。
OSHOの言葉を借りると、「生きたり、死んだりしている」ようなあり方だった。
生き生きと生きたい。生きたり死んだり、ではなく。
全面的に生きたい、自分の持つエネルギーを惜しみなくいつでも出し切るような、そんな人生を送りたいなと思いました。
生き生きとしているあり方が続く限り、命は永遠です。
文字通り、死はないのです。
レオンも、肉体は見えないレベルへ変化してしまいますが、存在という意味での命はずっと一緒なのだなあ、と感じています。
― 天国に行くことが問題なのではない
問題は、どこにいても
天国に在ることのアートを学ぶことだ
今この瞬間を、絞り切ってしまわねばならない
OSHO ―
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